享年89歳
実家の祖母が亡くなってから1週間が経ち、少し落ち着いてきたので文章を書いてみる。
享年89歳だった。 89歳といえば老衰と言われても仕方ないのだが、とても元気な祖母で、入院も亡くなる3ヶ月前までは一度もしたことがないような人だった。そのため100歳まで、てっきり長生きすると思っていた家族からは、とても急な出来事だったように感じる。(ちなみに曽祖父は享年105歳!!)
激動の人生
祖母は戦争の経験者で、その後42歳という若さで夫を亡くし、3人の子供を一人で育て上げたという激動の人生を歩んだ人だった。
今と違い、(もちろん今も大変だとは思うが)制度が整っていない中シングルマザーが3人の子供を育てるというのは、想像を絶する大変さだったに違いない。
祖母の「あっち向いてこっち向いたら50年」という名言(迷言?)がその壮絶な人生とそれをあっけらかんに言う祖母の性格を見事に表している。
変わっていたばあちゃん
そんな祖母はその世代にしては(良い意味で)変わってるばあちゃんだったと思う。
とにかく誰に対しても小言を言わず、人に会えばその人の良いところを探し出して褒め、感謝を言葉を常に口に出して表す人だった。
僕も大学生の頃、悩んでよく実家に帰っていたのだが、大抵の家族なら言いそうな「しっかりしろ!」というような小言を一度も言われたことがない。
「孫には誰でも甘いものだ」と言われそうだが、父親も「なにかうるさく言われた記憶はない」と言っているので、たぶんそういう性格であり、人が嫌だと感じることは絶対に言わないよう意識していたのだと思う。
「近頃の若いもんは」とか「昔はいい時代だった」とか言わず、「今」を生きる人だった。
晩年はカラオケや韓流ドラマ、旅行など、人生をとにかく謳歌していたように思う。 (韓流ドラマは一度にDVDを20本借り、3日で全て見終わっていた。他人でもすぐ仲良くなるばあちゃんはたぶんDVD屋さんでは「韓流ばあちゃん」みたいなあだ名でもついていたことだろう)
良い意味で少し変わっていたばあちゃんだった。
「なんとかなる。大丈夫。」というのが口癖の人で、「生きてるだけで丸儲け」と言ってるのを聞いたこともある。戦争経験者ならではの言葉かもしれない。
また80歳まで現役で仕事を行っていて、さらには亡くなる直前まで結構な広さの畑の管理を一人で行っていた。(今は父を中心に両親が四苦八苦して行っている)
身内びいきも多分に入っているとは思うが、本当にすごいばあちゃんだった。
ばあちゃん子だった
そんなばあちゃんと幼少期から一緒に過ごした僕は、自他ともに認めるかなりの「ばあちゃん子」だった。
土日になると朝は祖母とその友達が喫茶店に行くのに付いて行き、昼からはジャスコのゲームセンターに行って二人並んでメダルで行うパチンコを延々とやっていた。 (70歳位の祖母と小学3年生が並んでパチンコをやっているのは珍しかったようで、よく後ろに人だかりができていたw)
理屈っぽい僕と陽気なばあちゃんは性格が正反対だったこともあり、うまがあったのかもしれない。とにかく僕はばあちゃんになついていたし、ばあちゃんは僕をかわいがってくれた。
ちなみに遺影は僕と写っている写真が良い表情をしていたのでそれを加工したものになった。ここだけの話、父親や叔母さんには悪いが、自分と写った写真が使われているのは内心嬉しい。
これから
受けた恩があまりに多くて全部は返せていないけど、最後入院していた頃は実家にいたこともあってお見舞いに頻繁に行くことで少しは返せたのかなと思う。
返しきれなかった分は 「相手が嫌な思いをすることは言わない」、「とにかく良いところを見つけて褒める」、「感謝の気持ちはちゃんと言葉にする」
というのを、まだまだ下手くそだけど、なんとかばあちゃんを真似して他の人に渡せるようになっていきたい。
感情的に書いたので、あまりまとまっていないけど、ここらで終わりにしたいと思う。
きっと(というか必ず)
「そんな長く書いてくれても、読めんがね」
となんの悪気もなく、あっけらかんに祖母は言うと思うので、続きは僕があっちに行ったときにでもゆっくり話したい。
〜おわり〜